大阪夏の陣とは
書簡や史書などの膨大な史料をもとにして丁寧に描かれています。当時の人々の考え方にもふれられる興味深い一冊です。 黒幕は家康ではなかった!?
戦国時代最後の戦い「大坂の陣」とは ③夏の陣
大坂夏の陣に参陣した武将 は、両軍合計30万人ともいわれています。攻城軍は全国の大名たちで、守城軍は秀頼の近臣と浪人たちです。 ここでは、攻城軍=徳川軍と守城軍=豊臣軍とにわけて、主な武将を紹介します。 徳川勢 ・徳川家康 攻城軍の総大将です。大坂夏の陣の時、家康は秀忠へ、征夷大将軍や家督を譲っていました。いわば「ご隠居さん」です。しかし、実際には徳川氏、引いては江戸幕府の最高権力者でした。当時日本に来た外国人たちにとっても家康は日本の最高権力者と感じられたようで、「エンペラー(皇帝)」とまで呼ばれています。 ※参照: 徳川家康のあだ名「狸親父」について。たぬきの意味って何?
豊臣方は軍議で籠城戦をすることに決め、大阪城周辺にも多くの砦を構築していた。そして冬の陣の緒戦はこれらの砦で勃発。 結論を先に言ってしまうと、 各砦での戦いはすべて豊臣軍の敗北 となり、徳川軍に占領されてしまう。 以下に各砦の戦いの流れを記す。 11月19日 木津川口の戦い 【豊臣方 ×】明石全登(不在) 【徳川方 ○】横須賀至鎮ら 11月26日 鴫野の戦い 【豊臣方 ×】井上頼次、援軍に大野治長ら 【徳川方 ○】上杉景勝 同日 今福の戦い 【豊臣方 ×】援軍に木村重成・後藤又兵衛ら 【徳川方 ○】佐竹義宣、援軍に上杉景勝 11月29日 博労淵の戦い 【豊臣方 ×】薄田兼相(不在) 【徳川方 ○】横須賀至鎮ら 同日 野田・福島の戦い 【豊臣方 ×】大野治胤ら 【徳川方 ○】九鬼守隆ら 大阪冬の陣の流れ こうして豊臣方の将は大阪城へ撤退し、大阪城は徳川軍によって完全包囲されることとなる。 大阪冬の陣:布陣図 ※出所:by Jmho(2006/10/23)-大坂冬の陣布陣図 / CC-BY-SA 3. 0 Adapted. )